短編③

 奴です。夜眠れません。




「憧憬」


 長雨が続く季節に入った。昼夜となく湿った風が流れ、つねに本降りのように激い雨が降った。舗装されていない近所の公園はすぐにぬかるみ、人が寄らなかった。海は雨を受けて黒く見えた。海洋に出る船もいくらか少なかった。

 広岡は大学に用があるから歩いていかなければならなかった。事務係に書類を出す用であったが、もうその締め切りも近いからぐずぐずしていられなかった。けれども引っ越して大学が近傍にあるのはよい仕合わせであった。バスに乗って駅まで行き、四駅離れた大学前の駅まで電車で行くのは金ばかり嵩張った。広岡は通学の間に田園を見た。田園を抜けると海が見えた。大学は海の近くにあった。構内も海の香りが漂っていた。

 大しけの海でひどいめまいのようにうねる高波の音が聞こえた。水を撥ねながら進む車の音もあった。平常は潮の香りが風の中に臭ったが、梅雨になってから重力の強くなっている感覚すら与える湿気と豪雨の中で幻のように嗅がれた。広岡は藤川の喫っているたばこの臭いを思い返した。彼自身の持つ大略的なたばこの臭いとはまた異なる嗅ぎなれない香りがあるのを知っていた。しかし広岡は尋ねられないでいた。喫煙するときの藤川の目のたたえるうら悲しさが、広岡への軽蔑に思われて彼の口をつぐませたのだった。広岡は不意に藤川の視線に気づいた。まったく凪いでいながら湿り気のある目であった。あるいはその目を他に向けた。やはり悲しい目であった。けれども広岡が見るうちではもっとも純で澄んだ目でもあった。親に叱られた後の、心持を言葉で表せないでいる子どもの顔であった。それが冬の海のような荒涼を秘めながら、危うい美麗を抱えているのを広岡は感じずにはいられなかった。彼女に呼びかけると寂寞の顔は変面のごとく消え失せて、もとの優しい笑みのある藤川に戻ってしまった。そういうゆえんから、広岡は、藤川が喫っているときにはほとんど話しかけないように心決めていた。

 狭い中に何棟も建ててある構内はそれでも人がいないと寂しかった。事務係のある棟は中でももっとも遠かった。自動販売機ばかり光っているそばを通り抜けて城のように複雑な建物の群を抜けた。

 書類を渡すだけであるから用はすぐに済んだ。職員がその場で書類の不備なく書かれてあることを確認してから帰った。あとは事務係の仕事である。広岡の役目はこれで終わっていた。

 室内は静かであったが、その建物の入り口まで出てくるとまた激しい雨音がした。傘は少しも乾いていなかった。

 梅雨の水気のある空気の中に、広岡は一瞬ばかりたばこの匂いを感じた。藤川の喫っているものだと悟って、見回して彼女を探した。またうら悲しい顔をして虚空を見ているかと思うと、片時も見逃せない気になった。けれどもそれは自分の服に沁みた匂いであった。