パソコンで書いた責任のない文章

 コロナのワクチンのせいで発熱した以外では数年ぶりの発熱だった。ようは風邪。ワクチンのあれは風邪のうちには入らないし、体調不良としてはきわめて人工的な部類だ。自然なのはひさしぶり。

 

 どう考えても、気温差の激しい晩冬・初春に窓を開けたまま寝たからだ。人体の健康とかひとつも考えていない。暑い気もするし、寒い気もする。昼下がりはいささか過ごしやすくって、夜になると肌寒い。春になるのは政府によるプロパガンダで、実際は春なんてものはありえないのかもしれない。現に夜が思いのほか寒すぎて、こっちは風邪をひいてるんだから。

 

 コロナと考えれば二週間とか十日とかの昔に思いをはせ、まだあのころは実家にいたなと郷愁の念でいいのだが、風邪は案外近いところに原因があるから、昨日の食事を思い出して今日の献立を決めるのと同じ。昨日窓を開けて寝たのなら、今日は風邪をひく、となる。因果関係はそれくらいたどりやすい。

 

 症状が軽すぎる。味覚も嗅覚も正常で、炊飯器から噴き出す白米のかおりがわかったのだから、あいつなわけがない。風邪の顔をしたあいつだとしたら間違いなく殺してやる。もしそうだとして、小児喘息をわずらっていたことのある人間に、肺にかかわる病気を投げこむなんて正気じゃない。いや、重篤な病気を人間に投げこむのは地球全体の運命として馬鹿げている。なんというか、やり方が手荒い。

 なんにせよ、コロナじゃない、と思った。

 

 頭痛から、無視できないのどの痛みへ。それから気味悪い色合いの痰と来て、発熱。ここまでは順調だ。すこしの淀みもなく、淡々と風邪の諸症状が積み重ねられる。実に単純な手組みだが、肉体に対してたしかな重量を与える。指摘するほどではない棘のある言動で、人を確実にゆるやかにストレス性の何かにさせるタイプの人間と同じ、ちゃんと効くやり方。風邪はそのあたり自分が病気の王道だと理解してやっている。今やコロナの下位互換というか、真似事みたいな扱いにおとしめられている風邪も、よくよく考えれば(いや、よくよく考えなくたって)本来人間を困らせていた存在で、スギ・ヒノキの花粉症みたいな植物依存・季節依存のものではなくて、かかろうと思えば一年中いつでもかかることができる。そういう意味では、風邪に焦りはない。いつも自分のスタンスを守って、やるべきことを着実に忠実に、一歩一歩踏んでいく。自分の地歩を固めてものごとをこなしている。

 

 新人賞に出すつもりの小説を、今度は手書きの原稿で送ろうと思って手をつけたのも、風邪のせいで一度とまる。むやみに高いわけではないのに、熱が脳を揺するから座ってもいられない。書いている文字がぶれる。取り組んでいる段落がなにを言いたいのか、なにを描写して、読む人間にどう訴えかけたいのか、わからない。情報を吐き出すのが億劫になる。考えるというのが嫌なのだ。

 

 手で書くのにこれほど頭を使うとは思わなかった。ただ使うというのではない。もっと理性の奥を針でいじくるみたいな使い方だ。ボトルシップを作るみたいだった。いや、ボトルシップを作るみたいに、瓶のなかで自分の脳を組み立てていた。脳髄とか小脳とか、それがなにかは忘れたけれど、大脳新皮質とか。なにかそういうかんじだった。自分の文章に向きあうのは案外骨を折る作業だ。「体が汗で湿り、服は汗で濡れている」って二回も「汗で」なんて言わなくていいのに、みたいなことですら、キーボードで文字を打っているときには気がつかなくて、手で文字を書いているときにようやく発見できる不手際だ。主語のねじれも文法的なミスもそう。書くという原始行為そのことに意識を注がないと、書かれたものの不体裁はわからない。もちろんパソコンで書いたものをパソコン上で神経質に読み返せば多少はましになる。でも合理性がどんどん文章を読み飛ばす。だいたいでいいんだよ、感覚で、みたいな、バイト先のあてにならない先輩。なんの用があって私にラインよこすんですか。

 

 風邪をひけば、頭を使う作業はまるきりできずに、ただ横になっているばかりになる。脳が重く、世界は遠く隔たって、体の芯が質の低い映像通信みたいにぶれる。脳と体の接続があきらかに悪い。脳がなんにも指令せず、体は指示待ち野郎を決めこんでいる。私の相手をする人なんて誰もいない。ねえ世界って私なんかのためにあるんじゃないんですよ。たぶんあるようにしか世界はなくて、運命とか、神さまとか、本当は一つも真実ではないんですよ。このくそつまりもしねー世界。

 

 新人賞の原稿は数日前に書いた五枚そこらで投げ出され、ようやく手に入れたセカンドアルバムも聴かないまま。情報を入れるのがしんどいから小説を読むことすらできない。意味のある情報を、主体的に入れる、というのが、無理。体調の悪い体は、いかにも体調悪いんですって雰囲気で、くそおもんない。泥棒かささぎ編は、笠原メイの街頭調査のあたりまで読んだ。それも三日前とかそのくらい。

 

 今年はそんなに本を読んでいない。卒論があって、院試があって、それから、それから……というかんじで、文字を追う気にもなれず、もうじき院生だからと思うと文献も触れておかないと、せめて日本語のやつ。でもだるいなら読まなくたって、ほら充電期間みたいなさ。そんなこと言われても、何か読まなきゃいけないんじゃないですか知らないけど。でも実際こうやって読む気にもなれないんでしょ、しゃべるなよ。とか、ね。

 

 最初に野口冨士男の『暗い夜の私』、次に川端康成の『山の音』、カフカ全集、尾崎紅葉の『金色夜叉』、深沢七郎の『人類滅亡の唄』、(息切れ)、バルザックの『谷間の百合』、三島由紀夫の『真夏の死』。ひいひい、そう、それだけ読みました。三か月かかって七冊。私なにしてんだろ、の弱々しい苦笑もできない。読んでないだけ、読みたくないだけ。「完全な電波の奴隷」(理芽「NEUROMANCE」より)になって、ツイッターの「おすすめ」を繰りつづける。知らない人間のすてきなツイート、無表情のぬいぐるみ、高いところに登る猫。

 

 ゆで卵を作る。作りたいから作るはずが、「好きな作家が体にいいと言ってたから」と理由をつける。別にそこが本質なわけではない。本当は、食べたい、のだが、思考に邪魔が入る。風邪のせいじゃない。ふだんからこうなのだ。田中慎弥信者なのも認める。『ひよこ太陽』のどれかで言ってた「タンパク質をとれと女が言ってたから卵だけは食べる」みたいな文言を後生大事にしている。食欲がなくても卵だけは食べようとするのはそういうことだ。田中慎弥みたいな疲れた雰囲気の痩せ型中年男が好きなせいだ。

 風邪特有のにおいが鼻に抜ける。くさくて、鈍重。

 

 こんな食べものでいいのか、と思った。食欲はあるから食べればいい。食べたらきっと治りも早い。じゃがいもをゆでてつぶしたハンバーグ。水と素モトを混ぜてひと煮立ちさせるだけのスープ。それからゆで卵。健康的なのか粗雑なのかわからない、食材の寄せ集めでしのぐ。いやいや、じゃがいもをゆでてつぶして、それってけっこうな労力でしょ、全部で一時間かかったんだから。それはそうだけどさ、なんかこう、その結果がこれか、みたいな無力感があるんだよ。

 

 考えることのすくない行為は風邪をひいていても楽だ。文章を書くのは脳がいかにも疲弊するが、じゃがいもの土を落としてゆでるとき、すりつぶすとき、焼くとき、何も考えない。現象を眺めているだけ。ふむ、土が落ちているな、ごろごろゆでられているな、つぶれているな、焼けてきたな、で済む。文章は違う。こんなんでいいのかよ、もっと書けるだろまともな文章を、頭使えばもっと知性のある文になるだろうが。そういう言葉が頭のうしろをこつこつたたく。向きあっている感覚がどうしようもなくしんどい。そばに置いてあるポムポムプリンのぬいぐるみをじっと見つめるだけでは足りないくらい疲れる。

 

 一人暮らしの料理には責任がない。いきなり凝ったものに挑戦しても、作ったことのないものを作ってみても、それでもし失敗したとしても、いい。焦げた料理でも見た目がぐずぐずでも、食べるのは自分一人きりで、困るのも自分だけだ。実家にいたときは親も食べる料理だから気力を使う。ミスしたものを出すわけにはいかないし、ミスしたぶんだけ食材の無駄も出る。他人が絡むと、責任が生まれる。

 

 ではなぜ文章に責任が生まれているのか。公開する以上は、ということか。それともプロ意識のせいだろうか。文を一つ生成するのにも、こうじゃないとか、そうじゃなくてさとか、考えるのは、自分で消費するだけではない代物と心得るからか。潔癖症の人間が、毎日丹念に掃除をしたり、リモコンの角度を気にするのと、それと同じだとしたら、たしかにプロ意識と言ってもよいのかもしれないが、むしろもっと個人的な感性だ。自分的には違う、みたいな、こねくりまわした・ねじれた感覚。まわりがどうとかじゃなくて、私がキモチワルイからだめなんです。いわゆる「職人気質」。

 

 晩ごはんもゆで卵を作る。昼に使ったお湯が水にもどっている。それをふたたび沸騰させて、真っ白な冷たい卵をそっと入れる。浸かりきらない。昼に作ったときは、全部浸かったのに。それだけ、沸騰で無くなったのだ。気体になって、換気扇の向こう側だ。

 九分熱湯に浸けていたのに、当然、一部分だけぐじゅぐじゅだった。お湯のなかで転がさないからだ。

短編③

 奴です。夜眠れません。




「憧憬」


 長雨が続く季節に入った。昼夜となく湿った風が流れ、つねに本降りのように激い雨が降った。舗装されていない近所の公園はすぐにぬかるみ、人が寄らなかった。海は雨を受けて黒く見えた。海洋に出る船もいくらか少なかった。

 広岡は大学に用があるから歩いていかなければならなかった。事務係に書類を出す用であったが、もうその締め切りも近いからぐずぐずしていられなかった。けれども引っ越して大学が近傍にあるのはよい仕合わせであった。バスに乗って駅まで行き、四駅離れた大学前の駅まで電車で行くのは金ばかり嵩張った。広岡は通学の間に田園を見た。田園を抜けると海が見えた。大学は海の近くにあった。構内も海の香りが漂っていた。

 大しけの海でひどいめまいのようにうねる高波の音が聞こえた。水を撥ねながら進む車の音もあった。平常は潮の香りが風の中に臭ったが、梅雨になってから重力の強くなっている感覚すら与える湿気と豪雨の中で幻のように嗅がれた。広岡は藤川の喫っているたばこの臭いを思い返した。彼自身の持つ大略的なたばこの臭いとはまた異なる嗅ぎなれない香りがあるのを知っていた。しかし広岡は尋ねられないでいた。喫煙するときの藤川の目のたたえるうら悲しさが、広岡への軽蔑に思われて彼の口をつぐませたのだった。広岡は不意に藤川の視線に気づいた。まったく凪いでいながら湿り気のある目であった。あるいはその目を他に向けた。やはり悲しい目であった。けれども広岡が見るうちではもっとも純で澄んだ目でもあった。親に叱られた後の、心持を言葉で表せないでいる子どもの顔であった。それが冬の海のような荒涼を秘めながら、危うい美麗を抱えているのを広岡は感じずにはいられなかった。彼女に呼びかけると寂寞の顔は変面のごとく消え失せて、もとの優しい笑みのある藤川に戻ってしまった。そういうゆえんから、広岡は、藤川が喫っているときにはほとんど話しかけないように心決めていた。

 狭い中に何棟も建ててある構内はそれでも人がいないと寂しかった。事務係のある棟は中でももっとも遠かった。自動販売機ばかり光っているそばを通り抜けて城のように複雑な建物の群を抜けた。

 書類を渡すだけであるから用はすぐに済んだ。職員がその場で書類の不備なく書かれてあることを確認してから帰った。あとは事務係の仕事である。広岡の役目はこれで終わっていた。

 室内は静かであったが、その建物の入り口まで出てくるとまた激しい雨音がした。傘は少しも乾いていなかった。

 梅雨の水気のある空気の中に、広岡は一瞬ばかりたばこの匂いを感じた。藤川の喫っているものだと悟って、見回して彼女を探した。またうら悲しい顔をして虚空を見ているかと思うと、片時も見逃せない気になった。けれどもそれは自分の服に沁みた匂いであった。


短編②

奴です。できたら毎週月曜に上げられたらと思います。

主題から逸れた感がありますが


『背の高い女』


 まえがき


本書は、まったくの異世界における出来事の現地語による記述を、あえて我々の知りうる言語へと試みに翻訳しようというものである。江戸時代の日本が、鎖国下においてなお蘭学を学び続け、そこには多数の困難があったように、本書の制作にあたっては、過小な文献からさまざまな推測を働かせることが要求され、あるときには一文の吟味に、さらに言えば一語の吟味に、多大なる時間を費やした。しかし我々はそれを無駄とは決して考えない。いかにも我々の言語に似つかわしい構造を取りながら、しかし当然と同じ語源を有する語句はありえないこの「異世界語」は、個人による人工言語とするにはきわめて「現実的」で、たとえばエスペラントよりもはるかに多くの不規則な文法や語形変化を有し、トキ・ポナよりもはるかに多くの語彙を有するが、一方で我々の世界において完全な修得者および母語話者は存在しない。そうしたある種の不気味さを抱えながら、この語は実用的であることを確からしくしている。

 我々に与えられた文献は、本原著と、原著と差のない時代に著された(と推測される)二冊の小説と、新書と雑誌が一冊ずつであった。むろん、この区分も我々の形式に当てはめてあるから、この五冊の分類が、実際には別であることも考えられる。そしてまた、小説(と我々が推定した本)のうちの一冊は、著者による特殊な言い回しか、あるいは過度な省略や語形の短縮により、その意を十分に解しえなかった。とはいえ文法および語句の理解には、よく寄与している。検討会において、その特殊性から研究に値するものと考えるものもあったが、いまだ資料が足りない感が強く、またどれほど願おうともさらなる資料の獲得を予見しがたいために、それ以上の研究は困難なままである。ここにおいて当初の段階でより多くの資料を得られなかったことが悔やまれる。なおこの際、とくに一言すべきは、発音の手がかりが皆無であることによる、固有名詞と思われる語句の訳出の困苦である。雑誌(と推定される絵写真の多分に含まれる冊子)においては、驚いた表情で口をすぼめる者の顔写真に添えられた吹き出しに書かれた文字から、それが/u/と発音すると考えられるほかは、もっともらしい判断のできない文字ばかりであり、研究の際には、あえて一字ごとに暫定的な音を与えていた。しかし、それはあまりにも恣意的な行為であり、討議の利便を求めただけであったから、本書においては、その固有名詞の語源となった単語をもとに普通名詞のように訳してある。ただし、実際の普通名詞との混同を避けるため、かぎかっこ“「」”でくくった。また、いくら検討してもその語源すら知りえなかった固有名詞については、後に紹介する相澤氏の助言により現地の発音が知れたものについてはカタカナで、知れなかったものについては伏字で表すこととする。

 しかし我々は手に入れたまったく少ない文献のうちの一冊を、その不断の努力によってついに邦訳しえた。それは言語学研究のある面における一勝利であり、ここに携わったすべての者の尽力が報われた瞬間でもあった。そのため、本書の前書きにおいて、ぜひ協力者の全員の名前を書き記すことでその慰労と換えたい。

 なお註釈を同じ一冊のうちに記載するかは、その膨大さによって長らく議論されたが、とうとうすべてを記載することと決まった。言語への関心が強い読者諸君は、注釈までをもよく読み通すことで、未知の言語に対する憧れや、関係者の忍苦を感じてほしい。そしてその忍苦の結実によって著された本書が、ついに他者の目に触れることとなった事実から、避けがたくその成功を知ってほしいのである。

 

  宇品 正美  新京大学教授

  宇田野 一  中府大学教授

  今野 武夫  修文大学教授

  迫村多喜二  国立人文科学研究院言語学研究室副室長

  須田  健  平山学院大学教授、野井山大学名誉教授

  松  久子  鴻島女子大学教授              (五十音順、敬称略) 


 このうち、言語分析のみならず、邦訳作業を主導された今野武夫氏に格別の感謝の意を表したい。氏のただならない努力の末、我々は予定よりも早い進行で作業ができた。氏の力なくしては、達成までにどれほどの歳月を要したか計り知れない。

 また、最後に、本原著およびその他の我々が得たすべての文献を一人で獲得し、さらにきわめて優れた保存状態で持ち帰ってくれた相澤忠之氏のとてつもない苦労と、後の研究へのご教示は、いくら感謝の字句を書いても足りないことだろう。氏の果敢な挑戦がなければ、我々はもはや異世界の存在をも夢物語に留めていただろうことは、とりわけ強調したい。

 

                                  神田 大


 

 「背の高い女」


 「広野の人」はいつの日からか、庭を散歩する癖がついていた。それは母「背の高い女」に就寝のキスを頬へ受けた後の、きっかり三十分だけ経った深夜から始まった。町の会合所からまだ声がした。この「木々の」町の会合所でひとたび人が集まると、いつまでだか騒ぎ声が絶えなかった。「広野の人」はまだまどろみへの底知れぬ恐怖を手放したばかりの幼い人で、もはや夜というものが、いったいいかにして過ぎるか、すこしも知らなかった。そしてまたこの散歩は、母や父「聖典を抱きながら」の知るところではなかった。

 しかし夜は何と静かだろう! 「広野の人」はいつになくはっきりと草を踏む音を聞いた。自分の硬いテイェヌ靴(註:特殊な材質の、一般的な靴)が無遠慮に草を潰し、あるいは擦切るのが、手にした明かりの下で見えた。空にある大きな明かりよりもはるかに矮小な明かりによって、むしろ複雑な陰影が足元に作られる。それに心を引き付けられるのだった。

 とはいえやはり「広野の人」は子供であって、家を一周としないうちに眠たくなった。もうまどろむ感覚には慣れているから、ただ眠ろうと思えるのだった。

 家に入る前に明かりを消すと、突然と自身が闇に溶けたようでそれだけが恐ろしかった。

「広野の人」はまったく明かりのない廊下を自室まで、眠りの波に身を濡らし揺すぶられながら歩いた。父母の部屋が幾分か離れたところにあるとはいえ、夜の彷徨をいつ知られるかわからない恐ろしさから、しかしそれよりも弥増さる暗闇への憧れから、彼女はティエヌ靴が床を鳴らす音をつとめて抹消して歩いた。わが意識が(睡魔に襲われながらに)絶えずあり、それにもかかわらず闇の中では鏡にもみずからの目にも映らないわが身を、「広野の人」は服の上からさすって、はじめてそのいまだ消えざるを感じるのだった。私はここにいるのだろうか、と思った。あるいは肌に触れる感覚は幻かもしれない。濃い眠気が体に満ちる感覚を思うと、夢であってもおかしくはなかった。私は今、どこにもいないのだろうか? それとも、私という意識が(おそらく)あるうえは、変わらず私は“ここにいる”だろうか? いつか父母に尋ねてみたかった、闇にまぎれた我々は、存在しうるか、否か。

 しかし朝は、ひとたび眠るとおそろしい速度で到来する! 父「聖典を抱きながら」が彼女を起こしに来た。闇の底から持ち上がる感覚の後で、突如明るみが目前に現れた。というのはまったく閉め切られたカーテンを「聖典を抱きながら」がすっかり開け放ってしまったからであったが、それがたとえば今まで潜り込んでいた無意識化の闇や、眠りの前に周囲にあった(はずの)闇とはあまりにかけ離れた、いかにも正反対な姿であるあまり、「広野の人」は自分でもなぜだかわからないほど驚くのだった。“私がここにいる”と彼女は思った。それから“私がある”と考えてみた。窓のそばにある椅子に父が座って、そこにある本だの筆記具だのをいじっている。“彼もまたある”と「広野の人」は思ってみた。そうなると目に見えるあらゆるものに対して“ある”とか“いる”とかの評価が付されるわけで、まだ体のごく表面にすら甘い眠気の残っている彼女は、その深遠さに以前に闇や睡眠に対して感じたような恐怖を抱いた。“ある”“いる”とは何だろう? これが目下の彼女の出すべき(だと彼女が感じた)課題だった。

 母「背の高い女」の作った朝食を食べながら彼女はそのことを考えた。純粋な疑問として親に投げかけるべきか、いまひとつはっきりしない不可思議を、彼女はいつまでも胸に空転させていた。彼女はまだ幼かった。いかにしても答えは出ず、一方で存在への恐怖だけが増すのだ。たとえば、と彼女は思った、私が今食べている炒り卵と野菜も存在している。

「早く食べなさい」と父が言った。



 母「背の高い女」が娘の髪を指先で器用に結び、小さな花飾りをあしらう間も、やはり彼女は同じことを考えた。母の鼻歌を耳にしながら。

 「今日はどこかへ行きましょう」と母が言った。

 「うん」

 「どこがいい?」

 「どこだろう」と彼女は言った。どこへ行こうと構わなかった。というのは彼女がはじめてといってよいような思索に耽り、大事なのはどこに行きつくかではなくどれだけ歩けるか、歩きながらに考えられるかだからである。そしてまた、こうした散歩はひどく離れたどこかを目的地に定めることが多かった。

 「できた」と言って母が彼女の頭を撫でた。見事に結われた深紅の髪は、まさしく母由来の美しい髪の毛だった。

 「湖へ行きましょう」と母が言った。

 散歩が決まると、二人は外行きの服に着替えた後で昼食を袋に入れた。父「聖典を抱きながら」は仕事のために今回ばかりは来られなかった。母が恐ろしく長い指で昼食を詰める様子を、ダイニング・テーブルの椅子に座って彼女は見た。母は自分のために用意された天井の高い台所で、それでもなお窮屈に動いている。今でも体は成長し続けているらしかった。以前は膝立ちになれば立ったままの娘の髪を結えたのに、今では彼女に高い椅子に座ってもらわなければならないのだ。しかし毎朝の日課である結髪のために二人は顔をそばに近づけて睦まじく言葉を交わした。

 ただ外を歩くときにはそうはいかなかった。「広野の人」を縦に何人並べても足りないほど背の高い母と彼女とでは、横並びに歩くときすこしも会話できないのだった。あたりに生えているティエヌの樹は本来なら強い日射から道行く人を守るためにあるはずだが、あまりに背が高いために彼女はその林冠より上に胸があり、避けがたく日の光を受けた。日傘はむろんある。夫が特注した、持ち手に美しい○○調の彫刻があしらわれたこの日傘は、父や、もちろん娘には大きすぎて、簡易な家のように見えた。

 「広野の人」はその林道を歩く間、ただ母の恐ろしく細い脚を眺めた。母の足は時折りの散歩以外には出歩かないために日射というものに蒙く、そのうえ常に(あるいはほとんど常に)丈の長い服で覆い隠されていた。だからきっと白いはずであった、というのは「背の高い女」は一人で入浴しているから、「広野の人」が十分に分別のつくようになったころ、もう彼女の裸体というものをすこしも知りえなかったし、もとより記憶もなかった。頭上では葉擦れの音がする。母の異常なほど細い体のもっとも細いようなくびれのあたりが、そばの枝葉を揺らして娘のところへ新緑の葉を落とした。娘はその一枚の空に舞っているものを取った、母からのささやかな贈り物と思って。

 決して背が高いわけではない娘は母の顔を見上げようとした。林冠の枝葉の間隙から日の光とともに垣間見えるような母の顔があった。けれどあまり高くにあるばかりにいったいいかな表情でいるのかわからなかった。それがどことなく寂しくて、「広野の人」は手にした葉を、葉柄を軸にしてくるくる回していた。いったいいつから散歩の途中で母と話さなくなっただろう? 私の覚えている限りでは、と「広野の人」は当てもなく顧みた、母はもうすこし背が低かったのだ。すくなくとも樹を突き抜けるほどではなかったと思う。今でも私は小さいままだけれど、そのころの私は随分と小さかったから、じきに大樹をも越しそうな背丈の母がひどく大きく見えたのだが、今では何の誇張もなく、そのころの比にならないほどになってしまった。たとえば母についてどのくらい大きくなったと父は言うだろう? 昔の母二人分だとでも言うだろうか? 「広野の人」は苦笑した。私がすこし大きくなる間に、母は倍になってしまった!

 林道は湖まで延々と絶え間なく、周囲の景色ばかり小川だの畑だのと変化した。そのときに匂う水の香りや土の香りは、ティエヌの葉の香りの合間にごくわずかに嗅がれた。その道が途絶えるととともに湖に出ると、二人は湖畔をまた黙って歩き回った。風にたゆたう水面の幻のような音のそばに、母の艶やかな色合いのティエヌ靴の堅い音がした。「広野の人」はいまだにその葉を手放さなかった。

 「ここにしましょう」と不意に母の声が聞こえた。

 そこは芝の生える小広い平原だった。ところどころにイェーウウィ(註:ユリに似た白い花)が咲き、その甘い香りがした。林道の美しい並をはっきり映し出す湖を前に二人は座り込み、昼食をとることにした。「広野の人」はここでその葉を捨てた。

 「座っていいのに」と母が言った。娘はわざと立って食べていたのだ。

 「お母さんと話したいから」と娘は言った。

 母は微笑した。それでも二人にはあきらかな身長の差があり、傍目には彼女たちがたしかな母子とは知れないだろう。

 母はその大きな手で娘を撫でた。彼女の上半身をほとんど包むほど大きな手のひらで背をさすり、大きく細長い指ふたつで頭を撫でた。文字通りに手の上で踊ることすらできるだろう母「背の高い女」の手のひらは、最近はよく娘の読書する場所のひとつとなっていた。そのときしばしば「広野の人」は母に自分が重たくはないかと尋ね尋ねした。彼女はただ静かに首を振るだけである。

 今度も同じような問答を含むやりとりがあり、「広野の人」は母の手のひらの上に上半身を預けて横になった。尻を触る芝の柔らかい感触と、それとは別な調子の母の手の柔らかい感触とを同時に体感しながら、鏡面のごとき湖に映るそばの木並を眺めた。水気ある冷たい空気が流れている。

 この地方にはいくつもの湖があって、二人はここのほかにもいたるところに出向いた。林道の道半ばに不意に現れるものや、その終点に広がるもの、あるいは林道からまったく離れたところのもの……湖が彼女ら二人の憩いの場であるのは言うまでもなく、さらに言えばすべての人にとっての癒しであった。それゆえそれらは長い年月の末にもある種の神秘性に彩られた美しさがあって、時季により容貌を変えていくさまを多様な言葉やほかのやり方で表した。今、母が絵に描きだそうとしているのもそのひとつである。

 母「背の高い女」が紙と鉛筆を取り出して、器用に片手で風景を描いている間、娘は母の指にすがりながら朝に抱いた疑問をもう一度考えようとした。つまり、“ある”とは何か、あるいは、“いる”とは何か。何かはっきりした違いがあると「広野の人」は思った。それはその場で名状しうる簡単な区別というよりは、むしろ言語の領域外にある、唯一感性だけで捉えうる区別である。彼女はそこにそれ自体すら名状しがたい妙なもどかしさを感じた。彼女自身はそれが解消されないから、目の前で光を撥ねる湖の美麗な顔をすこしも見据えていなかった。

 そして反対に、母はそのきらめきをも絵に落とし込もうとしていた。湖底まで見通すような、凪ぎながらに看破する鋭さのある目に、湖面が映っていた。



(母「背の高い女」と思われる人物が、湖面にたゆたっている挿絵)



…………………………


短編①

奴です。たまに短編を出せたらなあと思います。


『我が葬列』



 ぬかるみに足を取られるから、御堂に向かう道の途中でもふだんになく疲れていた。雨が森の葉を打ちながら土に降った。音も景色も、あるいはほかのあらゆる感覚をも霧に呑まれていた。山道を登るほどかえって重力が強くなり、目前から色が失われる気がした。もとより色などなかったかもしれない、と私は思った。土の匂いが山に色を付けていたように、もしくは山の色自体が土の匂いを持っていたように、褪せた色だの匂いだのの残滓が霧散していた。鳥がどこかに止まっているはずだった。

 私は私の葬列に連れ立って歩いていた。私が四人で私の入った棺桶を運び、私が鉦を鳴らしながら読経し、私がすすり泣き、私が泥に足を取られながらに過去を偲び、私が御堂まで葬列を導いた。棺桶の中の私は死ぬ前に何を考えていただろうと参列の中の私は思った。私は町の高架下の道で死んだのだった。私に撲殺されたのだった。私が私を撲殺するとき、殺される私は何を思ったのだろう。しかしそれは私のことであり、それにもかかわらず参列の中にいる私とは別であるから、つまりそのときの感情をすこしも知りえない。私が私を慰めていた。まだ幼い私は麓の家で高校生になった私と一緒に留守をさせてある。いつから幼き私はこの葬列に加わるだろう? 高校生の私は、次の私の葬儀に参加しなければならないだろう。というのも、私がはじめて参列したのは、高校三年生の春だったからだ。そのころ癌で亡くなった私を、私と私と私と私で棺桶に入れて担ぎ、私が先導し、その後ろから私が追ったのだった。抗いようもなく死んだ私が、ほとんど肉を削がれた体で生を終えてしまったことを、私は不幸な終わり方だと思った。私が死に向かいながら、いったい何を思うか、尋ねられなかった。だから、病魔に蝕まれていく私を呆然と見るだけの私の無力感のほかに何を感じられよう。そのときの私は、私だけは癌で亡くなりたくないとも考えなかった。

 雨天の葬儀はしばらくぶりだった。四人の私は水気の多い泥のせいで随分と歩きづらいようだった。しかし棺桶に触れてよいのはその四人の私だけだと決められているから、最後尾の私はじりじり進む背後を眺めるだけだった。私の読経も鉦の音も聞こえなかった。雨が私の体を濡らしながら音を立てずに沁み込んでいくのが分かった。私は熱をも失った。死んだ私とこの私と、ほとんどまったく差がないように思われた。いまだ霧に隠れて姿の見えない雨で冷えた御堂と、死んだ私と、この私は、何ら違いのないようだった。

色も匂いも音も熱もなかった。