パソコンで書いた責任のない文章

 コロナのワクチンのせいで発熱した以外では数年ぶりの発熱だった。ようは風邪。ワクチンのあれは風邪のうちには入らないし、体調不良としてはきわめて人工的な部類だ。自然なのはひさしぶり。

 

 どう考えても、気温差の激しい晩冬・初春に窓を開けたまま寝たからだ。人体の健康とかひとつも考えていない。暑い気もするし、寒い気もする。昼下がりはいささか過ごしやすくって、夜になると肌寒い。春になるのは政府によるプロパガンダで、実際は春なんてものはありえないのかもしれない。現に夜が思いのほか寒すぎて、こっちは風邪をひいてるんだから。

 

 コロナと考えれば二週間とか十日とかの昔に思いをはせ、まだあのころは実家にいたなと郷愁の念でいいのだが、風邪は案外近いところに原因があるから、昨日の食事を思い出して今日の献立を決めるのと同じ。昨日窓を開けて寝たのなら、今日は風邪をひく、となる。因果関係はそれくらいたどりやすい。

 

 症状が軽すぎる。味覚も嗅覚も正常で、炊飯器から噴き出す白米のかおりがわかったのだから、あいつなわけがない。風邪の顔をしたあいつだとしたら間違いなく殺してやる。もしそうだとして、小児喘息をわずらっていたことのある人間に、肺にかかわる病気を投げこむなんて正気じゃない。いや、重篤な病気を人間に投げこむのは地球全体の運命として馬鹿げている。なんというか、やり方が手荒い。

 なんにせよ、コロナじゃない、と思った。

 

 頭痛から、無視できないのどの痛みへ。それから気味悪い色合いの痰と来て、発熱。ここまでは順調だ。すこしの淀みもなく、淡々と風邪の諸症状が積み重ねられる。実に単純な手組みだが、肉体に対してたしかな重量を与える。指摘するほどではない棘のある言動で、人を確実にゆるやかにストレス性の何かにさせるタイプの人間と同じ、ちゃんと効くやり方。風邪はそのあたり自分が病気の王道だと理解してやっている。今やコロナの下位互換というか、真似事みたいな扱いにおとしめられている風邪も、よくよく考えれば(いや、よくよく考えなくたって)本来人間を困らせていた存在で、スギ・ヒノキの花粉症みたいな植物依存・季節依存のものではなくて、かかろうと思えば一年中いつでもかかることができる。そういう意味では、風邪に焦りはない。いつも自分のスタンスを守って、やるべきことを着実に忠実に、一歩一歩踏んでいく。自分の地歩を固めてものごとをこなしている。

 

 新人賞に出すつもりの小説を、今度は手書きの原稿で送ろうと思って手をつけたのも、風邪のせいで一度とまる。むやみに高いわけではないのに、熱が脳を揺するから座ってもいられない。書いている文字がぶれる。取り組んでいる段落がなにを言いたいのか、なにを描写して、読む人間にどう訴えかけたいのか、わからない。情報を吐き出すのが億劫になる。考えるというのが嫌なのだ。

 

 手で書くのにこれほど頭を使うとは思わなかった。ただ使うというのではない。もっと理性の奥を針でいじくるみたいな使い方だ。ボトルシップを作るみたいだった。いや、ボトルシップを作るみたいに、瓶のなかで自分の脳を組み立てていた。脳髄とか小脳とか、それがなにかは忘れたけれど、大脳新皮質とか。なにかそういうかんじだった。自分の文章に向きあうのは案外骨を折る作業だ。「体が汗で湿り、服は汗で濡れている」って二回も「汗で」なんて言わなくていいのに、みたいなことですら、キーボードで文字を打っているときには気がつかなくて、手で文字を書いているときにようやく発見できる不手際だ。主語のねじれも文法的なミスもそう。書くという原始行為そのことに意識を注がないと、書かれたものの不体裁はわからない。もちろんパソコンで書いたものをパソコン上で神経質に読み返せば多少はましになる。でも合理性がどんどん文章を読み飛ばす。だいたいでいいんだよ、感覚で、みたいな、バイト先のあてにならない先輩。なんの用があって私にラインよこすんですか。

 

 風邪をひけば、頭を使う作業はまるきりできずに、ただ横になっているばかりになる。脳が重く、世界は遠く隔たって、体の芯が質の低い映像通信みたいにぶれる。脳と体の接続があきらかに悪い。脳がなんにも指令せず、体は指示待ち野郎を決めこんでいる。私の相手をする人なんて誰もいない。ねえ世界って私なんかのためにあるんじゃないんですよ。たぶんあるようにしか世界はなくて、運命とか、神さまとか、本当は一つも真実ではないんですよ。このくそつまりもしねー世界。

 

 新人賞の原稿は数日前に書いた五枚そこらで投げ出され、ようやく手に入れたセカンドアルバムも聴かないまま。情報を入れるのがしんどいから小説を読むことすらできない。意味のある情報を、主体的に入れる、というのが、無理。体調の悪い体は、いかにも体調悪いんですって雰囲気で、くそおもんない。泥棒かささぎ編は、笠原メイの街頭調査のあたりまで読んだ。それも三日前とかそのくらい。

 

 今年はそんなに本を読んでいない。卒論があって、院試があって、それから、それから……というかんじで、文字を追う気にもなれず、もうじき院生だからと思うと文献も触れておかないと、せめて日本語のやつ。でもだるいなら読まなくたって、ほら充電期間みたいなさ。そんなこと言われても、何か読まなきゃいけないんじゃないですか知らないけど。でも実際こうやって読む気にもなれないんでしょ、しゃべるなよ。とか、ね。

 

 最初に野口冨士男の『暗い夜の私』、次に川端康成の『山の音』、カフカ全集、尾崎紅葉の『金色夜叉』、深沢七郎の『人類滅亡の唄』、(息切れ)、バルザックの『谷間の百合』、三島由紀夫の『真夏の死』。ひいひい、そう、それだけ読みました。三か月かかって七冊。私なにしてんだろ、の弱々しい苦笑もできない。読んでないだけ、読みたくないだけ。「完全な電波の奴隷」(理芽「NEUROMANCE」より)になって、ツイッターの「おすすめ」を繰りつづける。知らない人間のすてきなツイート、無表情のぬいぐるみ、高いところに登る猫。

 

 ゆで卵を作る。作りたいから作るはずが、「好きな作家が体にいいと言ってたから」と理由をつける。別にそこが本質なわけではない。本当は、食べたい、のだが、思考に邪魔が入る。風邪のせいじゃない。ふだんからこうなのだ。田中慎弥信者なのも認める。『ひよこ太陽』のどれかで言ってた「タンパク質をとれと女が言ってたから卵だけは食べる」みたいな文言を後生大事にしている。食欲がなくても卵だけは食べようとするのはそういうことだ。田中慎弥みたいな疲れた雰囲気の痩せ型中年男が好きなせいだ。

 風邪特有のにおいが鼻に抜ける。くさくて、鈍重。

 

 こんな食べものでいいのか、と思った。食欲はあるから食べればいい。食べたらきっと治りも早い。じゃがいもをゆでてつぶしたハンバーグ。水と素モトを混ぜてひと煮立ちさせるだけのスープ。それからゆで卵。健康的なのか粗雑なのかわからない、食材の寄せ集めでしのぐ。いやいや、じゃがいもをゆでてつぶして、それってけっこうな労力でしょ、全部で一時間かかったんだから。それはそうだけどさ、なんかこう、その結果がこれか、みたいな無力感があるんだよ。

 

 考えることのすくない行為は風邪をひいていても楽だ。文章を書くのは脳がいかにも疲弊するが、じゃがいもの土を落としてゆでるとき、すりつぶすとき、焼くとき、何も考えない。現象を眺めているだけ。ふむ、土が落ちているな、ごろごろゆでられているな、つぶれているな、焼けてきたな、で済む。文章は違う。こんなんでいいのかよ、もっと書けるだろまともな文章を、頭使えばもっと知性のある文になるだろうが。そういう言葉が頭のうしろをこつこつたたく。向きあっている感覚がどうしようもなくしんどい。そばに置いてあるポムポムプリンのぬいぐるみをじっと見つめるだけでは足りないくらい疲れる。

 

 一人暮らしの料理には責任がない。いきなり凝ったものに挑戦しても、作ったことのないものを作ってみても、それでもし失敗したとしても、いい。焦げた料理でも見た目がぐずぐずでも、食べるのは自分一人きりで、困るのも自分だけだ。実家にいたときは親も食べる料理だから気力を使う。ミスしたものを出すわけにはいかないし、ミスしたぶんだけ食材の無駄も出る。他人が絡むと、責任が生まれる。

 

 ではなぜ文章に責任が生まれているのか。公開する以上は、ということか。それともプロ意識のせいだろうか。文を一つ生成するのにも、こうじゃないとか、そうじゃなくてさとか、考えるのは、自分で消費するだけではない代物と心得るからか。潔癖症の人間が、毎日丹念に掃除をしたり、リモコンの角度を気にするのと、それと同じだとしたら、たしかにプロ意識と言ってもよいのかもしれないが、むしろもっと個人的な感性だ。自分的には違う、みたいな、こねくりまわした・ねじれた感覚。まわりがどうとかじゃなくて、私がキモチワルイからだめなんです。いわゆる「職人気質」。

 

 晩ごはんもゆで卵を作る。昼に使ったお湯が水にもどっている。それをふたたび沸騰させて、真っ白な冷たい卵をそっと入れる。浸かりきらない。昼に作ったときは、全部浸かったのに。それだけ、沸騰で無くなったのだ。気体になって、換気扇の向こう側だ。

 九分熱湯に浸けていたのに、当然、一部分だけぐじゅぐじゅだった。お湯のなかで転がさないからだ。